小林賢太郎のコントはなぜ憂鬱にさせるのか。

 

小林賢太郎という人物をご存知だろうか。

舞台を中心に活躍しているパフォーミングアーティストである。

主に劇作、役者、小道具などなどその才気は計り知れない。

彼の劇は、大胆な言葉遊びから、小さな言葉遊びまで巧みに使いこなし、日本語というものを徹底的に分析しているもので、完成度が非常に高い。

だが、彼は近年になって、創作のあり方が変わって来たような感覚がして気持ちが悪くなってしまう。

 

小林賢太郎テレビという番組がNHKにある。

これは1年に1回放映しているもので、全て小林賢太郎が脚本、構成をしているテレビ番組である。

普段、舞台を主軸としている彼が、映像という媒体を使って表現をする。

その珍しさ、面白さに惹かれてファンの声もあつい。

 

最近、小林賢太郎テレビ9が放映されたが、何か質が落ちている気がした。

それは細かく言えば8くらいからあって、2、3、4にあったキレは感じられなくなってしまったのだ。

何かネタが切れそうな、ギリギリのところも感じられる。そのギリギリの所で彼は何を思っているのだろうか。

 

小林賢太郎テレビでは、毎回全ての撮影が終わった後、「お題」が出される。

それを編集なし、CGなし、小道具は自作、などの規制を含んで、三日間で形にしなければならない。

今回は、スペシャルゲストの水曜どうでしょうで有名な、ミスターこと鈴井貴之さんからの出題。

そのお題は、「失敗」だった。

作品の良し悪しはともかく、失敗は彼にとってなんなのだろうか。

鈴井さんは小林さんに対して「失敗をしない完璧な人間」という個人的な見解をあらわにしたが、確かにそうである。

 

挫折を経験しているからこそ、見えるものがある。

 

彼は挫折を経験しているのだろうか。

私には、こう見える。

挫折は経験はしているけど、それすら、どうしても美化したいという欲望に駆られている人間だと。

ラーメンズとしてオンエアバトルなどの番組にラーメンズとして出演していた時代、自分たちに寄せられた誹謗中傷のコメントの数々をただ読むという、そんなコントを見た覚えがある。

それが顕著に表すように、彼は完璧を求めすぎているように感じる。

 

彼は、象牙の塔に籠るタイプの創作活動をしているように感じる。

要するに、自分の中に脳内劇場を完璧に立ち上げる人間だと思っている。

それが何が危険かというと、他者が介在しないことに尽きる。

他者が介在してこないと、社会性が失われ、その世界でしか自分の創作の場を保てない。

だが、彼はその場を、自身の手品や、パントマイムなどの能力を駆使して、広げようと努力しているのだ。

彼の優れた才能はここにある。

しかし、それはもう限界に感じる。

 

社会は多様化して、サブカルは進化、手品やパントマイムと言ったパフォーマンスは使い古されている。

「誰でも練習すればできるもの」になってきているのだ。

本屋に行けば、必ずハウツー本があり、ネットを見れば、やり方が事細かに、それも様々な人が、書いている。

 

今の時代、もう新しい物語は作れないのだ。

 

我々はより良いものを作ろうとすると、二次創作的な発想しか出来なくなってしまうのだ。

それに抗う方法が、どうしても見つからないでいる。

そして今や、その二次創作にも既視感を感じざるえず、三次創作まで移行する。

そんな風潮が、小林賢太郎テレビを見てて、とても色濃く感じる。

 

彼は、完璧を目指している。

ただその完璧は、程遠く感じる。

だから、彼は隠すことを選んだんだと思う。

前回の8から、何か守りの体制に入っているような気がする。

それは悪い意味でも良い意味でもだ。

 

彼の言葉遊びのコントは初め、全てを明かしていた。

「これ」と「これ」が繋がっている、と言ったように。

ただ、それは時が経つにつれ、観客にその言葉遊びをさせる方向性に移行してきたと思う。

そういうシャレが隠されていたのか、と言ったように。

それはネタが切れてきた、というよりかは、そうやって守りに入らないと、この先、創作活動を続けていけないということに近い。

 

このように、彼の美化しないとやっていけないという脳は、とてもわかりやすい。

わかりやすいがために、彼のコントの中で、それが垣間見えると、完璧主義という言葉が頭から離れなくなってしまう。

 

美しい調律の劇、という化粧はもう剥がれかけているのだ。

ただそれでも小林賢太郎は創作をやめないだろう。

それなしではやっていけないからである。

 

彼の劇作を見ていると、本当に辛く、私を憂鬱にさせる。

何故かというと、彼には才気があるのにもかかわらず、その美しさが時が経つにつれ、取れかかっているからと、それを続けていかないと生きていかないというある種の強迫観念を持っているように感じるからである。