ケチャップライスの道
私は日々オムライスを研究している。
オムライスを食し、評価して、新しい価値を見出すこと。
これは当面の目標になっている。
今回はケチャップライスについて語りたい。
私はケチャップライスの作り方には二通りあると思っている。
甘くするか、酸っぱくするかである。
これは本来トマトが持つ要素の一部である。
ただ誤解しないでほしいのが、「甘い」と感じる中にも「酸っぱい」という感覚は含まれている。
また逆に「酸っぱい」という中にも「甘い」は存在するのだ。
つまり、甘いと酸っぱいは二項対立しえないということだ。必ずしもどちらかの要素に含まれる。
ケチャップを選ぶところから物語は始まっている。
まず、100円ローソンなどで売られている、自社が作ったであろう、ケチャップの味に全く凝っていないものは使わないことを誓ってほしい。
味が薄くなってしまうからだ。
ソースというものは繊細に作らなければならない。
それによってオムライスの味が決まると言っても過言ではないからだ。
参考までに言っておくが、ケチャップライスを作り、卵を乗せた後、もう一度ケチャップをかけるという猛者がこの世の中にはいる。
そういう人はケチャップがなんたるかをわかっていない。ケチャップはオムライスにおいて、主役であり、引き立て役でもあるからだ。
もう一度よく考えてみてほしい。焼いたケチャップの上にケチャップを乗せているオーバーキルを。
ただ、私はケチャップを混ぜずにつくったライスの上に、卵を乗っけて、その上からケチャップソースをかけることを許している。
話を戻そう。
先程、ケチャップライスに関して、甘いものと酸っぱいものがあるという話をしたが、それはケチャップのメーカーによるものだ。
ハインズで作ると、比較的甘さが引き立つ。
ハインズはそのままだと、香辛料がやや効いていて、酸っぱいイメージを持つと思うが、ソースにしてしまうと、それが飛んで、甘味料的なものが残っている印象がある。(と推測する)
アメリカンな、かったるさを感じる程度に甘いのだ。
一方、カゴメで作ると、酸味が際立つ。
カゴメはそのままだと、ちょっと甘い印象があるが、ソースにすると、素材自体のフルーティさが際立つため酸味が出る。(と推測する)
ここでオムライスは二分されるべきだと思う。
素材のどちらを使うか選んでほしい。
だが、この選択は、いま現在私の中でも迷い中なのだ。
というのも、個人的には、甘めなハインズを使っているが、カゴメにも心残りがある。
カゴメはあの有名店、たいめいけんのオムライスを作る時にも採用されているものである。
ソースの作り方は、たいめいけんと同じ手法をとっているのに、ハインズが好きになってしまった。
これからはもう少しカゴメに研究を注いでみようと思う。
さて、ソースの作り方だ。
まずバター、又はマーガリンをフライパンに乗せる。
これは本当に多めに乗せたほうがいい。
遠慮をせずにどかっと乗せてほしい。
そこで躊躇する方は、是非たいめいけんの作り方の動画をYouTubeでご覧いただきたい。
こんな入れるの?というような量を平気でぶちこんでいる。
それでも怖いのであれば、せめて『完全なる立方体』を入れてほしい。直方体では確実に足りないのだ。バターナイフは容器の底までつける。そしてガバッと拾う。これが常識である。
次、油を入れる。
これは大体スプーン1〜5匙くらい。
ケチャップと油が混ざる量が変わることによって、こってり感を調節する。
ぜひ試してみてほしい。
多いと、ケチャップライスの下からケチャップの赤みと油が混じり合った、ラー油みたいなものが出てくる。私はこちらの方が好きだ。ただ入れすぎると、ケチャップを入れた時に油が飛ぶので気をつけてほしい。
少なめだと、さっぱりした印象というよりかは、単純にケチャップソースの量が減るため、その分、卵に自信がある方はそちらの方が良いだろう。
そのくらい油も大事である。
ただ、この時、絶対にごま油を使わないでほしい。
本当に合わないのだ。
オムライスは洋風の料理だ。そこら辺はもう察してくれ。
基本的にオリーブオイルが良いだろう。
少し焼けてきたら、ここでケチャップをぶちまける。
ケチャップはライスを入れてからじゃない。
入れる前だ。
大事なのはケチャップをバターと一緒に焼くことである。それによって、なんとも言えないハーモニーを奏でるのだ。
これは実際にやってみるとわかる。
最初にやった時、私は「今すごく美味しいものを作っている」という陶酔感に浸った。
そんな匂いが自分のフライパンから漂ってくるのだ。
少し菜箸などでまぜまぜして、そこにライスをぶちこむ。
フライパンを振って、ソースをなじませると同時に、ライスにヘラで切り込みを作って、よく混ぜて、完成だ。
ここら辺の工程は慣れてしまえば、さらっとできるものである。
練習は大事だ。
私の中で、今は具材を使わない、シンプルなケチャップライスを極めている。
ただ、もう少し味が欲しくなる時がある場合、具材は、ケチャップを入れる前に、ちゃんと焼き色をつける程度に焼いておくと良い。
あと、ソースを作るとき、最後に白ワインをいれる方もいるかもしれない。
白ワインは確実にカゴメの方が合うような印象だ。
カゴメはフルーティを売りにしているため、それがとても引き出してくれる。
ただこれだと少し酸っぱいかな?と思われる方も多いかもしれない。卵に生クリームなどを入れて調整して、ブラックペッパーを砕かないでそのまま入れるとより美味しくなる気がする。
以上が自分の今のところのケチャップライスについての見解である。
食生活に彩りあれ....。
(ごま油をわざと使って、そこにごまのソースをかけるのも、、良いかも。あとハインズで作ったソースには、胡麻ソースと少し混ぜていい権限があると思う。甘さが引き立つ。)
演劇とダンスの境目をなくす作業について。
一般的に広がっているダンスのイメージは特権的な存在として音楽があり、その音楽を通して身体を見つめる、またはその身体を通して音楽を見つめるという相互作用によって成り立っていると思う。
それが音ハメとか呼ばれたりして、観客をあおるものなんだけども、やっぱりコンテになるとそれではない気がする。
音楽はその身体とはどうしても統合できない異物としての存在から僕はスタートすると考えていて、それは音楽というものを、自分の生理的な感覚に落とし込めて、必ずしも特権的なものではないという再確認のために存在しているものだと思う。
実際その起源や定義は明らかではないが、その音楽と乖離した生理的な感覚の状態は演劇にも、繋がりそうで。
要するに。
セリフというものを音楽として捉えた時に、それから乖離した状態というものは、セリフがセリフとして再確認するためのものではないだろうか?ということ。そしてそれは極めて生理的な感覚に落とし込めるのではないだろうか?ということである。
ただ弱点として、セリフと音楽は自分から発せられるか、それとも他のところから発せられるかという根本的な違いがある。
それと意外に、そのセリフを乖離させることは簡単なことで、それを役者に再確認させることが一番難しいと思っている。
だからその身体は、セリフと出来るだけ乖離させたもので、それをなるべく意識的にやることが重要な気がする。
それが可能であれば、その身体と脳の感覚が相互作用で交わることによって、セリフを再確認し続けることができる。
だが、問題はそこに自分と違う再確認をしている相手がいることだ。
自分と違う生理状態の相手は、絶対に分かり合えない存在である。その相手との距離を測るためには、その生理状態のすり合わせが必要になってくる。
そのために一番手っ取り早い方法は、共同作業だと思う。同じをことをしようとするという試行の志が互いの生理状態を緩和することなんだと思う。
それは、ダンスの振りでも同じことが言える。その共通認識が自分と他者を繋いでくれる。
ただそれは、生理状態のすり合わせをいかに円滑に進めるかの試行であるため、そのレベルで繋がってしまうと、人に見られた時、それは「二人で繋がっている」というよりかは「二人が一人に見える」という現象が起きる。
それだけで観客はダンスとしてみていられるかもしれないが、演劇的思考は止まってしまうため新しい関係を渇望すると思う。
そこで、役者に明らかな身体の負荷をかけることが大事になってくる。だが、僕はそれをなにか特権的なものとして役者に伝えたくない。
いかなる外からの感覚は、排除させたい。
例えば外から音を発してみたりする方法があるが、それ自体でもう特権的な存在として役者は捉えてしまうのでこれは違うことがわかる。
なので、僕はそれをいかに役者の内部で自分で変化させられるかが重要であり、それは、自分の意識の問題な気がする。
だがこれは普通の日常生活の身体で表現することは難しい。なので多少は舞踏的になってもいいことにしなければならない。
そして相手と会話をしなくてはならない、ということを確認する作業としてしか機能してはいけない最小限のものでなければならない。
それができれば、身体はセリフに、セリフは身体に、自分の身体は相手の身体に、相手の身体は自分の身体に、という相互関係が成り立つ。
そこの相互関係によって、演劇とダンスの境目はなくなると思う。
覚え書き。舞台について。
ここにいるという存在を大切にしていたい。
よく舞台は生の空間だからというけど、ぼくはそれだけでは、言葉が足りない気がしている。
生っていう空間は、その空間を共有できることに意味がある。
それは、観客と役者の垣根を超えて、ここにいて彼/彼女の話を聞いていると安心するとか、その人の気分に影響を与えることができる。
いい気分、わるい気分とあるけど、僕がいう気分は、そんな言葉で語れないなにかである。
そのなにかは、言葉にしないことで、共感覚を強くしていく。
言葉に表せられないものは、信頼によって生まれると思う。
それは、「この作品で伝えたいことは...」でも表せられるべきではない。その信頼は、どうやら作品とは、別の次元に存在している。
それはその信頼を観客の心の中でどのくらい引き伸ばせるかによる。
信頼、というものは人を掻き立てる。
だが、信頼できるものに対して、信頼したら、それで終わってしまう。
かといって信頼できないものは、できないで終わってしまう。
その信頼を掻き立てる部分を、盛り込むことが大切な気がする。
それはもちろん個人の感覚によって変わる。
そのために自分が観客になってみたときのように、五感をフルに活用して、作るべきだ。
人間関係と僕の作品。
【まとまりのない文章になってしまったが、今ここに記しておかないといけない気がして、そのままぶあーってかいてます。ご容赦ください...。】
僕は作品を作るときに、自分が設定したテーマに関して多角的に物事を考えて結論をなんらかの形で出さなくてはならない、という風に考えて、作っていたが。
もうそんな結論なんて出るような社会ではないってことに気づいた時、本当に萎えてしまった。
それはまさしく大学に入った時だった。
そして色んな演劇を見るうちに、自分の中では
「みんな違って、みんないい」
という陳腐な回答しか出なくなってきた。
要するに理論的にしか思考できなくなって、そこで停止しているということだ。
これが僕の結果なんだったんだろうと思う。
物語を理論的に考えてしまうと何がおかしくなるかというと、それだけになってしまうということである。
つまり、その物自体が、言語化できてしまうということだ。
せっかく作った自分の作品が、こんなブログでかけてしまうという内容になってしまったら困る。
問題は、どう観客が動くかだ、と思った。
それは言語化できない、人の心を動かす力である。
思えば、僕は色んなものに対して影響されてきた。
それでそれを会得し、見せることで僕自身のアイデンティティを保ってきたんだと思う。
「僕は小さい頃から、人に何かを見せるのが好きで...」
その文から始まる、大学への自己申告書は、印象に残っている。
手品、ジャグリング、パントマイム、ダンスなどを独学でやって見せたりしていた。
だが、僕は果たして人を影響させることができていたのだろうか、という問題が、最近自分をぐるぐるする。
自分が出来ること、は明確だが、それを見せる他人のことを全く考えていなかった。
そもそも他人ってなんだろうという問題にぶち当たる。
人のことは信じられる、というものではない。
そう自分は認識している。
人というものは必要不可欠な存在だが、完璧な信頼というものは置けないものである。
なぜかはわからない。
今まで人に裏切られたという自覚は少しあるが、それは相手側から見たら、もしかしたら違うかもしれない。
そんなことを考えていて、最近、人間関係という問題に踏み込もうとすると怖くなる。相手の内心が読めないからだ。
自分の中で、どうやってその外に出るかを考えている状態がいつも続いている。
外に出なきゃ。出方をどうしても習わなきゃ。
でも外に出たところで、本当にそこは外なのか?
井の中の蛙状態になってないか?
僕は井の中の蛙状態を、中学らへんで経験している。
大学に入ってから、その状態に気づくのだが。
何かしら僕は一番長けていると思っていた。
それが衝動となって、自分の中に何かを書くという名の火をつけたのかもしれない。
それで、映画を作っていたわけだが。
今の段階で、僕はその時作った映画をほぼ否定していて、黒歴史という風に思っているが、そこからもう僕は「井の中の蛙になりたくない」と思うようになった。
自己中心的な考えから離れたのだ。
でもそこで離れてみると、僕には社会性がないと思い知らされたのだ。
井の中の蛙の分のしっぺ返しがきたのだ。
社会性というものはどこまでも僕を追い詰める永遠の課題になった。
バイトではボロクソ言われる。
僕だから当たり前だ。
何が正しいのかよくわからない。
人の言うことが本当なのか、嘘なのかも。
そして大切な人をどう大切にしていいのか。
そもそも大切な人とはなんなのか。
理論では説明できない関係性に、僕は無理だと思ってしまった。いやになった。
でも僕にとって、人というものは、一緒にいないとダメな存在であった。
それは多分、だれかに何かを見せないといけないという、小さい頃からの欲望が突き動かしていたのかもしれない。
でも人と一緒にいる矛盾点は、いればいるほど、ぼくと相手の本心がわからなくなってしまうこと。
僕は本当にそれで、関係性が切れるのが嫌だった。
僕は誰かとどうやって話しかければいいのかわからないのに、なにか冷ややかな目で見られてしまう。
派手な服を僕はよく着るが、それは、自分に自信がない証拠なんだと、つくづく思う。
そういうことで、僕はどうしても解決できない関係性が本当に怖くて、極度に人に優しくしていて、僕が謝らなければならない、という風な強迫観念がつきまとっている。
それでそれがもう人格と張り付いてしまって、どこからが僕なのか、わからなくなってしまった。
いまこそその張り付いたものを、剥がさないとってずっと思っているが、剥がし方がわからないのだ。
僕は悩み続けているが、確実にその成果は出ていると思う。
それは久しく会っていない知り合いに会うと、
なんか落ち着いたね。と言われるからだ。
こうやって尖ったものを丸くする作業が、今の僕を作ってきた。
でも丸くなりすぎては違うと思う。
すこーし尖りたいし、尖り方を探したい。
しっかり意見が言いたい。
社会に馴染んでいきたい。
そんな思いのために、作品を作って、その都度、提示していきたいと思う。
色んなプロジェクトを、僕は考えるようになった。
どうにか、どうにか成功してほしい...。
でもいい感じに収まらないで、いつまでも悩んでてほしい。
そんな感じで、いまここにいます。
あっ、まあそれだけなんですけど。
なんかふと思いたって、書きました。
この後、心療内科に電話しようと思ってます。
カウンセリングしてほしい欲が、半端じゃないからです。
思い立ったらやらないと...。
そうある人に注意されたので。
悲観的になることの奥深さ。
「現代社会を悲観なければならない。」
そう諦めるしかないのである。
だから現段階での表現活動は、その諦めを笑うか、その諦めを徹底的に分析するか、のどちらかだと自分では思っている。
「病む」という言葉に台頭されるように、なぜか悲観的な目線は、反感を買う。
日本にはどこか、楽観的に見なければならないという同調圧力があるようだ。
よって何もかも辛いことは、精神論に結び付けられてしまう。
「病む」という行為は、一見すると悲観的になる行為のように見えるが、私は熟考しているのであると考える。
ただその思考の何が悪いかというと、その思考から動かず、留まろうとするという性質を持ち合わせているからである。
ただ悲観してはならない。
その悲観を笑うか、分析せねばならない。
それが自分の創作の根源となる思考である。
その奥深さと、果てしなさ、に私は魅力を感じている。
その思考は行き詰まることがないからだ。
やはり楽観的な思考をしてしまうとどうも息苦しいというか、それは建前なのではないか?と言った疑問をさておいて、考えることになってしまう。
自分も何かしら病んでいる人間だと思っているが。
別にそこに留まろうとはしていない。
(まあ時には留まって、センチメンタルに溺れるのも、オツだが)
とにかくそういう視点がなんらかの形で必要な気がする。
そういうのを自分は書いていきたいなぁって思うん、ですよねぇ。
収束に困ったので終わります。
小林賢太郎のコントはなぜ憂鬱にさせるのか。
小林賢太郎という人物をご存知だろうか。
舞台を中心に活躍しているパフォーミングアーティストである。
主に劇作、役者、小道具などなどその才気は計り知れない。
彼の劇は、大胆な言葉遊びから、小さな言葉遊びまで巧みに使いこなし、日本語というものを徹底的に分析しているもので、完成度が非常に高い。
だが、彼は近年になって、創作のあり方が変わって来たような感覚がして気持ちが悪くなってしまう。
これは1年に1回放映しているもので、全て小林賢太郎が脚本、構成をしているテレビ番組である。
普段、舞台を主軸としている彼が、映像という媒体を使って表現をする。
その珍しさ、面白さに惹かれてファンの声もあつい。
最近、小林賢太郎テレビ9が放映されたが、何か質が落ちている気がした。
それは細かく言えば8くらいからあって、2、3、4にあったキレは感じられなくなってしまったのだ。
何かネタが切れそうな、ギリギリのところも感じられる。そのギリギリの所で彼は何を思っているのだろうか。
小林賢太郎テレビでは、毎回全ての撮影が終わった後、「お題」が出される。
それを編集なし、CGなし、小道具は自作、などの規制を含んで、三日間で形にしなければならない。
今回は、スペシャルゲストの水曜どうでしょうで有名な、ミスターこと鈴井貴之さんからの出題。
そのお題は、「失敗」だった。
作品の良し悪しはともかく、失敗は彼にとってなんなのだろうか。
鈴井さんは小林さんに対して「失敗をしない完璧な人間」という個人的な見解をあらわにしたが、確かにそうである。
挫折を経験しているからこそ、見えるものがある。
彼は挫折を経験しているのだろうか。
私には、こう見える。
挫折は経験はしているけど、それすら、どうしても美化したいという欲望に駆られている人間だと。
昔ラーメンズとしてオンエアバトルなどの番組にラーメンズとして出演していた時代、自分たちに寄せられた誹謗中傷のコメントの数々をただ読むという、そんなコントを見た覚えがある。
それが顕著に表すように、彼は完璧を求めすぎているように感じる。
彼は、象牙の塔に籠るタイプの創作活動をしているように感じる。
要するに、自分の中に脳内劇場を完璧に立ち上げる人間だと思っている。
それが何が危険かというと、他者が介在しないことに尽きる。
他者が介在してこないと、社会性が失われ、その世界でしか自分の創作の場を保てない。
だが、彼はその場を、自身の手品や、パントマイムなどの能力を駆使して、広げようと努力しているのだ。
彼の優れた才能はここにある。
しかし、それはもう限界に感じる。
社会は多様化して、サブカルは進化、手品やパントマイムと言ったパフォーマンスは使い古されている。
「誰でも練習すればできるもの」になってきているのだ。
本屋に行けば、必ずハウツー本があり、ネットを見れば、やり方が事細かに、それも様々な人が、書いている。
今の時代、もう新しい物語は作れないのだ。
我々はより良いものを作ろうとすると、二次創作的な発想しか出来なくなってしまうのだ。
それに抗う方法が、どうしても見つからないでいる。
そして今や、その二次創作にも既視感を感じざるえず、三次創作まで移行する。
そんな風潮が、小林賢太郎テレビを見てて、とても色濃く感じる。
彼は、完璧を目指している。
ただその完璧は、程遠く感じる。
だから、彼は隠すことを選んだんだと思う。
前回の8から、何か守りの体制に入っているような気がする。
それは悪い意味でも良い意味でもだ。
彼の言葉遊びのコントは初め、全てを明かしていた。
「これ」と「これ」が繋がっている、と言ったように。
ただ、それは時が経つにつれ、観客にその言葉遊びをさせる方向性に移行してきたと思う。
そういうシャレが隠されていたのか、と言ったように。
それはネタが切れてきた、というよりかは、そうやって守りに入らないと、この先、創作活動を続けていけないということに近い。
このように、彼の美化しないとやっていけないという脳は、とてもわかりやすい。
わかりやすいがために、彼のコントの中で、それが垣間見えると、完璧主義という言葉が頭から離れなくなってしまう。
美しい調律の劇、という化粧はもう剥がれかけているのだ。
ただそれでも小林賢太郎は創作をやめないだろう。
それなしではやっていけないからである。
彼の劇作を見ていると、本当に辛く、私を憂鬱にさせる。
何故かというと、彼には才気があるのにもかかわらず、その美しさが時が経つにつれ、取れかかっているからと、それを続けていかないと生きていかないというある種の強迫観念を持っているように感じるからである。