悲観的になることの奥深さ。
「現代社会を悲観なければならない。」
そう諦めるしかないのである。
だから現段階での表現活動は、その諦めを笑うか、その諦めを徹底的に分析するか、のどちらかだと自分では思っている。
「病む」という言葉に台頭されるように、なぜか悲観的な目線は、反感を買う。
日本にはどこか、楽観的に見なければならないという同調圧力があるようだ。
よって何もかも辛いことは、精神論に結び付けられてしまう。
「病む」という行為は、一見すると悲観的になる行為のように見えるが、私は熟考しているのであると考える。
ただその思考の何が悪いかというと、その思考から動かず、留まろうとするという性質を持ち合わせているからである。
ただ悲観してはならない。
その悲観を笑うか、分析せねばならない。
それが自分の創作の根源となる思考である。
その奥深さと、果てしなさ、に私は魅力を感じている。
その思考は行き詰まることがないからだ。
やはり楽観的な思考をしてしまうとどうも息苦しいというか、それは建前なのではないか?と言った疑問をさておいて、考えることになってしまう。
自分も何かしら病んでいる人間だと思っているが。
別にそこに留まろうとはしていない。
(まあ時には留まって、センチメンタルに溺れるのも、オツだが)
とにかくそういう視点がなんらかの形で必要な気がする。
そういうのを自分は書いていきたいなぁって思うん、ですよねぇ。
収束に困ったので終わります。