演劇とダンスの境目をなくす作業について。
一般的に広がっているダンスのイメージは特権的な存在として音楽があり、その音楽を通して身体を見つめる、またはその身体を通して音楽を見つめるという相互作用によって成り立っていると思う。
それが音ハメとか呼ばれたりして、観客をあおるものなんだけども、やっぱりコンテになるとそれではない気がする。
音楽はその身体とはどうしても統合できない異物としての存在から僕はスタートすると考えていて、それは音楽というものを、自分の生理的な感覚に落とし込めて、必ずしも特権的なものではないという再確認のために存在しているものだと思う。
実際その起源や定義は明らかではないが、その音楽と乖離した生理的な感覚の状態は演劇にも、繋がりそうで。
要するに。
セリフというものを音楽として捉えた時に、それから乖離した状態というものは、セリフがセリフとして再確認するためのものではないだろうか?ということ。そしてそれは極めて生理的な感覚に落とし込めるのではないだろうか?ということである。
ただ弱点として、セリフと音楽は自分から発せられるか、それとも他のところから発せられるかという根本的な違いがある。
それと意外に、そのセリフを乖離させることは簡単なことで、それを役者に再確認させることが一番難しいと思っている。
だからその身体は、セリフと出来るだけ乖離させたもので、それをなるべく意識的にやることが重要な気がする。
それが可能であれば、その身体と脳の感覚が相互作用で交わることによって、セリフを再確認し続けることができる。
だが、問題はそこに自分と違う再確認をしている相手がいることだ。
自分と違う生理状態の相手は、絶対に分かり合えない存在である。その相手との距離を測るためには、その生理状態のすり合わせが必要になってくる。
そのために一番手っ取り早い方法は、共同作業だと思う。同じをことをしようとするという試行の志が互いの生理状態を緩和することなんだと思う。
それは、ダンスの振りでも同じことが言える。その共通認識が自分と他者を繋いでくれる。
ただそれは、生理状態のすり合わせをいかに円滑に進めるかの試行であるため、そのレベルで繋がってしまうと、人に見られた時、それは「二人で繋がっている」というよりかは「二人が一人に見える」という現象が起きる。
それだけで観客はダンスとしてみていられるかもしれないが、演劇的思考は止まってしまうため新しい関係を渇望すると思う。
そこで、役者に明らかな身体の負荷をかけることが大事になってくる。だが、僕はそれをなにか特権的なものとして役者に伝えたくない。
いかなる外からの感覚は、排除させたい。
例えば外から音を発してみたりする方法があるが、それ自体でもう特権的な存在として役者は捉えてしまうのでこれは違うことがわかる。
なので、僕はそれをいかに役者の内部で自分で変化させられるかが重要であり、それは、自分の意識の問題な気がする。
だがこれは普通の日常生活の身体で表現することは難しい。なので多少は舞踏的になってもいいことにしなければならない。
そして相手と会話をしなくてはならない、ということを確認する作業としてしか機能してはいけない最小限のものでなければならない。
それができれば、身体はセリフに、セリフは身体に、自分の身体は相手の身体に、相手の身体は自分の身体に、という相互関係が成り立つ。
そこの相互関係によって、演劇とダンスの境目はなくなると思う。